2012年3月5日月曜日

民間事故調の報告書

先日2月28日に、福島原発事故独立検証委員会(いわゆる民間事故調)の報告書要旨が発表された。
詳細は、こちら

冒頭の第1章には、事故の発生原因として、こんな文言が見える。

『事故(昨年3月11日)の直接の原因は、津波に対する備えが全く不十分で、電源喪失による多数の機器の故障が発生したことに尽きる。』



ものの言い方にはいろいろなレベルがあるものの、この表現は間違っているとは言わないが、ちょっといただけない。

津波により非常電源系が使えなくなり、全電源喪失という事態になったわけだが、事故原因は津波に対する備えの不備に尽きるのか?原発の関係者でない自分ですら、疑問に感じていることがある。

非常用電源の出動が必要となった遠因は、通常電源の喪失だ。
通常電源は、山中から送電鉄塔を経由して福島原発に供給されているのだが、津波が非常用電源を襲う前に、地震により鉄塔が倒壊してしまっている。この付近は震度6の揺れであったと報告されているが、その程度の地震で、送電線からの電力供給が途絶えていいのか。
とても謎である。

通常電源が被害を受けなければ、今回の一連の事故の発生は起きない。設計強度をそのようなレベルに設定していたのか不明だが、とても脆弱な電源系統に、とても危険な原発をゆだねていたことになる。

本当の原因は、原発の内部の主要機器の安全だけでなく、それを支えている周辺機器やインフラを含めた、総合的な安全設計の考えが欠落していたと言うことではないのか。

またこれは一部の資料から拾い読みした情報。
原発の圧力容器下部には、多数の制御棒が上下できるように貫通する構造となっていて、とても複雑になっている。組み立ての際には溶接により配管をくみ上げていく。その中には覗くこともむつかしい込み入った部分もあって、十分な検査が行われていないと言う話もある。設計が複雑で、確認できない部分もあると聞く。
原発機器の場合は、金属素材中に走るちいさなクラックまで検査(カラーチェック)して、耐圧などを確認するのが通例だ。

もし地震の揺れなどで未検査のクラックが増幅して伸張していったらどのような事態になるのか、その辺も解明されていない。はたして、原子炉圧力容器は健全なのだろうか?




2012年2月25日土曜日

希望的観測に安心したい

最悪の事態を直視したくない日本人の心性のことを以前書いた。この根っこにあるのは、事態にはやく安心したい、嫌なことから逃れたいという気持ちだ。

藤井厳喜さんの著書を読んでいて、なるほどと思った。
一部引用する。

「明治初期に来日し、日本の陸軍将校教育の基礎をつくったドイツ軍人メッケルは、日本人将校の欠点として、「希望的観測に依存しすぎる」ということを挙げている。これは日本民族固有の欠点であるらしい。」

藤井厳喜著『超大恐慌の時代』日本文芸社p.49

原発事故が発生した直後、正確な情報が少ない中、政府や東電からの情報は、事態は大したことではないとか、安全は保たれているというようなものが多かった、と記憶する。知りたいのは事実であって、政治家や利害がからむ関係者による「事実への評価」ではないと強く思ったものだ。

その気持ちは今でも変わらない。厳しい現実の技術情報や事実の報道を望んでいるのに、それにはほとんど触れずに、大丈夫ですから・・・となだめられている気がするのだ。そんな日本の姿勢は、海外の報道、政府、原発関係者から見れば、とんでもなく頼りなく写っているだろうと想像できる。コイツラハ事態が収拾できないのではないかと思われても仕方ないと感じる。

必要なのは正確な事実であり、データである。
それをどう評価するかではない。
まして事実が明らかにならないうちに(調べないうちに)、安心してくださいという希望的観測を聞きたいわけじゃない。

原子炉内の内部調査の続編はどうなっているのか。 また冷却水の水位がいくつなのかは、いまだどこからも聞こえてこない。
いまも圧力容器内を冷却するために大量の注水を続けているはずだ。注水量と水位の関係は把握できているのだろうか。水位も計測されていないのだからそれは無理か。

私感だが、圧力容器の底辺付近か、配管のどこかに、地震の揺れかメルトダウンか分からないが、けっこうな穴が開いていると推定している。水位が上がらないらしい事実と、床などからの高濃度汚染水の発生は、それを強く暗示する。その穴の大きさを推定するには、注水量と水位の変化を調べればわかるはずなのだ。

ほんとうに調査はどこまで行ったのだろう。まさか希望的観測に安住してしまい、手を抜いているとは思いたくないのだが。


2012年2月22日水曜日

Stay Foolish!

波頭亮・茂木健一郎著『突き抜ける人材』(PHPビジネス新書208)を読む。

既得権益のピラミッドがガチガチに社会を縛り付け、もはや自らは次世代への変化を生み出せない状況の日本。1995年以降、世界で変化していないのは日本だけという言葉も出てくる。危機感に満ちた本である。それを打破するのは、若い世代しかない。「突き抜けた人材」しかないという内容の本だ。

内容は至極当然というか、分かる内容だが、じゃ突き抜けた人材を育成するにはどうするのか、何がができるのか。最後の方で私塾の可能性に触れている。吉田松陰の松下村塾のような既存のシステムにとらわれずに、次世代をになう人材を輩出する道筋に希望を見出すという。

素朴な思いだが、常識にとらわれない若い人材が世にでて何かを始めても、権力や権威を持った既存の権益ピラミッドに押しつぶされるのがオチだ。

日本は明治維新や、敗戦などこれまで大きな変革を経験してきているが、いずれも大きな環境変化や、強い外圧に(しぶしぶ)対応する形で自らを変化させたように思う。自らの内部の矛盾を動機として、次の時代に向けて「自ら」変化した経験はあまりないと感じる。

既存のシステムが疲弊して機能しなくなり、極限まで危機感が高まるなど、環境条件が整わないと、若い人材が大きな役割をになうことはありえない。日本の状況がトコトンダメになるか、国民から一揆のような反乱がおきない限り、既存の権益システムはこれまでどおり機能して変化を押しつぶす方向に動くだろう。リビアのカダフィ大佐の末期のような足掻きや騒乱は必ず起こると想定しなければならない。

日本のこれまでの非常識が、新時代の常識に変わり、それが当然だと感じるようになることが、まず必要だと感じる。自己保身、組織保身に明け暮れる役人の支配に晒されていてはダメなんだとか、何の利益を生まないことに税金をつぎ込むべきではないし、それは犯罪なんだとかいうことが、当たり前になることだ。また科学技術の分野で、いちばんになることがなければ、日本国の成長の原資はなく、他国の後塵を拝するだけなんだ、ということである。国家の科学技術の予算に関して、なぜ一番でなきゃいけないんですかと、技術オンチのヘンな人に公開の場で言われること自体が、とっても恥ずかしいことだ、と感じなければダメだ。

スティーブ・ジョブスの有名となった演説に、Stay Foolish!という言葉がある。
日本の語感は、バカになれという風にしか聞こえない。
英語圏での語感は分からないところがあるが、たぶんバカというよりキチガイ、日本で言う「オタク」に近いものではないかと思う。
日本が大切にしてきた人材、すなわち「優等生」の対極に位置する人種だ。
若者よ、オタクであれ!平凡な優等生を目指すな!という意味だろうか。



2012年2月21日火曜日

なんとも不愉快な停滞感

先日の新聞記事で、昨年の10~12月のGDPは前期比で0.6%減とマイナス成長と報じられた。この結果、2011年の通年の名目GDP(物価変動を取り入れたGDP)は、前年比2.8%減となるとのことだ。この数字は、20年前の日本経済の水準と同じだそうである。震災の影響などがあるにしても、失われた20年といえるのかもしれない。

先月の貿易統計は、ちょっとショックな数値が並んでいた。輸出額から輸入額を差し引いた貿易収支が、31年ぶりに赤字(2兆4900億円あまり)に転落。貿易収支の年度別グラフを見ると、1980年の第2次石油危機で輸入額が大幅に増えたときの赤字レベル(2兆6000億円)に近い数字だ。この赤字となった1980年以降は、2010年までは黒字をずっと維持していて、1998年には最高の13兆9900億円という数値を達成している。弓なりに黒字に転じていたグラフが再び赤に戻った。

パナソニック、ソニー、シャープなどの主要電機メーカは、テレビ事業などで苦戦して大幅な赤字。日本の得意としてきた電機、自動車などの産業分野において、新興国などの追い上げに太刀打ちできない日本の姿が思い浮かぶ。

こういう事象をまとめて言うと、日本には強い輸出産業がなくなりつつあり、長い凋落の坂を転げ落ちているということだ。むろんユニークな小さな企業や、町工場のような存在が、世界を相手に頑張っている話はよく聞く。しかし日本全体の振興につながるような規模の産業となると、今後はどのようになるのか。なんだかイメージが湧かないのだ。

医療分野で先端を行っているか?
IT分野は?世界に輸出できる技術はあるか?
携帯もけっきょくスマートフォンに雪崩を打って切り替わっている。
すでに半導体は韓国などに太刀打ちできない。
ソフトの分野は強いか?

とくにこの10年くらいの間に、新しい技術や産業の勃興があっただろうか?なにか日本を駆け巡ったのだろうか?またそのような次世代への投資が行われただろうか?人材の育成にお金が使われているだろうか?私感だが、政治の世界においてもますます官僚の力が強固になり、新しい施策が次々となし崩し的に骨抜きになってきたように感じる。

停滞した社会では、いかに既存の社会の階層の上位に上り詰めるか、いかに自分の取り分を増やすかが関心事となる。そしてがんじがらめになった組織や慣習を変革する力を、そぐように作用する。こうして、ますます停滞の度が増していく悪循環にはまる。

日本の成長のシナリオが見えないのだ。またそのポイントに投資を継続するという方策も生まれない。なんとも不愉快。


2012年2月18日土曜日

それは考えなくてよい(2)

前記事の続き。


安全指針の指針27に書かれた2つの文章は、考えてみるとおかしな表現である。
なぜなら、それは安全に対する配慮を、「考慮する必要はない」、「想定しなくてよい」 と否定する形だからだ。

安全増し設計というものがある。屋上にさらに屋を重ねるような安全確保のための重複設計の考え方だ。メインのパラシュートが開かなかったら、予備のパラシュートを使うというような重複設計の考え方だ。予備のパラシュートという存在は、平常時には、無駄といえば無駄。だけれども異常事態に対処する知恵なのだ。

原発の安全、とくに電源設備に対する配慮が、なぜ不要であると指針に書かねばならないのか。やはり理由が分からない。不思議というほかはない。設備コストに配慮した安全指針だったのだろうか。
国民や周辺国を危機に陥れるリスクを犯してまで、コストを重視したのだろうか。そもそも原発の安全をその程度で収めていて良しとしていたのか。

「君はそんなことまで考えなくてよい!」という叱責の言葉を、昔、組織の上の人間から浴びせられた経験がある。人間は考えるために頭脳があり、 その頭脳を使うなという言葉に、強い違和感を覚えたものだ。人間に考えるな!とはどういう意味なのだろう。考えすぎてはいけないという法律があるわけもなく、ようするに上の人間の痛いところを突くと大変なことになるぞ、という恫喝であったのだろう。

余計な安全施策を考えるな!という安全指針にある言葉、誰に向かって発せられた禁止事項だったのだろう。しみじみとその奇妙さと不可解さを味わっている。



それは考えなくてよい

先日2/15の国会事故調で、参考人として出席した班目氏(原子力安全委員会委員長)は、従来の原子炉の安全設計審査指針なるものの瑕疵(まちがい)を認め、お詫びしたとされる。

3/11東日本大震災により、なぜ全電源喪失という事態に至ったのか、以前よりとても不思議に感じてこのBLOGにも記事を書いたが、そのおおもとの発信源はこの指針だと分かった。

正式名を、『発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針』(平成2年8月30日決定、平成13年3月29日一部改定)というものだ。


瑕疵と認めた一つは、「Ⅵ.原子炉冷却系 指針27」に書かれた文章だ。
引用すると以下のとおりである。

Ⅵ.原子炉冷却系 指針27 電源喪失に対する設計上の考慮
長期間にわたる全交流電源喪失は、送電線の復旧又は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない。
非常用電源設備の信頼度が、系統構成又は運用(常に稼動状態にしておくことなど)により、十分高い場合には、設計上全交流動力電源喪失を想定しなくてもよい。

大変分かりにくい文章だが、地震で送電線や鉄塔が破壊されても、また非常用電源がすぐ修復する(と思われる)ので、電源全部がやられちゃうなんて、考えなくていいよ、と言っている。
また、非常用電源が主電源系統と別系統になっていたり、非常用電源がいつも動かされているというように、すぐ使える状態だと信用できる場合には、全電源が喪失するなんてこともまた、考えなくていいよ、と言っているようだ。

大震災を経験した今、なんてザルな安全指針なんだろうと驚きを隠せない。安全委員会というところでは、地震、津浪、テロなどの非常事態をほんとうに考慮したことがないらしく、せいぜい何かの事情で送電線の補修をするとか、故障などの部品交換作業くらいしか想定していないようだ。

また非常用電源は、どんな状況でも大丈夫だし、壊れてもすぐ復旧すると期待しているフシがあって、そこも不思議なところだ。すぐ復旧するような仕組なり、別の系統にするなどの構成がとられていたのだろうか。そこを既定してくれなければ、指針の意味はない。

後半の文章も、よく読むと意味のない文章であることが分かる。非常用電源が信頼できるならば、全電源喪失を想定しなくてもいいとは、ことさら言うまでもない。非常用電源が動いているならば、全電源喪失ではないことになる。問題は、非常用電源の信頼度を100%まで高めることではないのか。その指針はどうもない様なのだ。

どのような経緯と審査を経てこの指針が決定されたのか記述されていないため、詳細不明だが、論文だってレフリーの審査をパスしなかったら論文誌に掲載されない。原子力安全委員会決定とだけ小さく記されている。
寒い。とても寒い指針であった。



2012年2月11日土曜日

安全とは何を指すのだろう?

福島第一原発の全電源が喪失し冷却不能に陥るという事態は、最も回避しなければいけない最深刻回避事項だったのに、なぜそんなことが現実に起きたのだろう?この疑問はいまだ11ヶ月を経てもボクの頭の中をグルグルと回っている。またそれに対する解明や表明の情報に接しないことも、なおさら不安な気持ちにさせる。

『地震により、ふだんはありえない細い通路が不運にも開いてしまい、悲劇の扉が開いた』という概念的な説明では、なにもわかったことにならない。細い通路はなぜ開いたのか?そもそもそれはほんとうにありえない「細い」通路だったのか?

波が巨大だった、想定外だった、という説明(言い訳)が、震災当時さかんに報道されていた。しかし、8/26の読売新聞の記事で明らかになったのは、東電内で津波の高さ試算レポートの第2報なるものが、2008年に東電上層部に提出されていた。結果的にそれを握りつぶしたことになった。

その試算とは、M8.3の明治三陸地震(1896年)に相当する地震が、原発の面する福島沖で発生したと想定したとき、原発に到来する津波の高さはいくつになるか?というごく自然な発想にもとづく試算だ。原発の安全性を審査するには必須の項目であっただろうと思われる。

その計算結果は、津波の高さ15.7m。今回の被害をもたらした津波は14m~15mといわれている。 握りつぶしたことになったというのは、東電は2002年にもうひとつ、最初に試算をしていて津波9.2mと予測、その結果は2009年に保安院に報告されている。 2番目の15.7mの予測結果は、土木学会に検討を依頼している。慎重にことを進めたということなのか。保安院にはすぐ報告しなかった。

東電トップが、予測した津波高さが、高すぎるのではと結果に疑念をもった雰囲気もある。予算がからむ事態を予想して、計算結果の評価にバイアスがかかったか。

2つの試算結果が合わせて保安院に報告されたのは、試算日から3年後、2011年3月7日。なんと皮肉なことに地震の起きる4日前だ。その試算結果の報告を受けた保安院は、設備面の対策が早急に必要と東電に助言したと言われている。
(ちなみに保安院は原発建設や運転における安全対策について指導監督する立場にあり、今回の事故を受けて、なにか見解を表明したとか責任を感ずるとかの会見をしたことがないと思う。雲隠れしてしまったのだろうか。とてもマカ不思議な組織である。)

ボクの基本的な疑問とは、電源(非常電源も含めて)が、なぜ海辺に晒されていたのだろうということだ。あとで敷地内の配置を見たら、原子炉より海側に電源設備がある。画像によれば、金網を張り巡らせた中に電源設備が設置されていた。 単純に、非常電源をふくめ電源は、地中にあるものと思っていた。それが潮風の当たる海辺とは・・・ これじゃダメじゃんというのが第一印象。

津波でなくてもテロ攻撃や、航空機の不時着や墜落、どこかの国の◎◎ドンが飛んできたら、どうするんだろうか?想定してませんでしたでは済まないだろう。今回のことで国家の危機を海べりに晒していたことが明らかになってしまった。

津波の高さを心配して、予測の計算をするくらいだったら、原子炉は要塞化すべきだったと思う。その際に、とうぜん制御系や電源系は、地中深く隠されているべきだ。 コストをかけることが可能ならば、原子炉自体を地中深く設置すべきだと思った。

海水を導く緊急水路を地中の原子炉の上部に設置しておき、今回のような最終事態となったら、手動でバルブを開き、海水注入が手動で行えるようにしておく。とりあえず空中爆発や放射性物質の飛散の最悪事態を、原子炉全部の水封で防ぐ。

既存の安全設備の脆弱さを知り、ほんとうに危惧したことは、原発とは、いったいぜんたい民間企業がやるレベルの事業なんだろうかということだ。民間であるなら、利益計算して最小コストで原発を建設することになるだろう。そんなコストの制約をかいくぐりながら建設する姿勢で、ほんとうの安全が確保できるのか?民間ならば、安全にかかわる設備も、事業利益に見合う安上がりのものに落とさざるを得ないだろうという危惧である。

今回のような原発事故が起きてしまったら、国家の危機を招きかねない。このようなリスクが明白になってしまった。ボクは国有化すべきであり、安全の検証は外部の客観的な団体に委ねるべきだと思う。



2012年2月10日金曜日

24時間働けますか?

松本市の中心に昨年末、丸善書店がオープンした。地下階を含め3フロアからなる近隣初、松本初(?)、長野初(?)の大型書店だ。

先日、家内と出かけてみた。久しぶりに都市部の大型書店の香りを味わった。そして4冊本を購入。すかさず横から、家内が言うのだ。 一冊買ったら、一冊捨てる! これじゃ4冊捨てなきゃいけない。

城戸・坂本共著『学者になるか、起業家になるか 理系の未来は明るい』(PHP新書769)という本が面白い。ビジネスのやり方や研究の仕方など、交互に語る内容だが、やはり実績を残している方の言葉は重い。

坂本さんの「1日24時間×週7日、仕事を考えられますか?」の節は、耳が痛い内容であり、いつも考えていたことなので深く納得するしかなかった。ちょっと長けれど引用。

『大企業にいる人がベンチャー企業を興そうと思っても、私が言っているようなことをやる覚悟がないのであれば、今働いている会社に残ったほうが幸せです。
不況の中で独立したら、1日24時間×週7日働くのは当たり前。
それでも独立したてで、すぐには儲からないものです。先行する賢い人が1日24時間×7日もかけて知恵を出し仕事をしているときに、そうでない人が1日8時間×5日で勝負して勝てるはずがありません。』(p.35)


絵を描く場合におきかえて考えれば、四六時中絵のことを考えている夢中な状態のことを示す言葉だろう。自分の表現をどう確立すべきか、どうしたらよりよい表現に到達するのか、あの道具をこうしたらどうかと、いつも工夫している。夢の中まで絵を完成する手段が出てくる。未完の絵のことを寝床でも考える。目が覚めて考えているのか、夢現で考えているのかわからなくなる。そんな状態。

たぶんこういう状態を通過しなければ、満足のいく絵は描けないだろうと思う。いやそれでもなかなか描けないのが厳しい現実。

どの著書に書いてあった言葉か失念したが、とても印象に残っている言葉がある。
 『ゴッホは一日8時間だけ絵を描いて、休日には絵のことを忘れてコーヒーを飲んで休養していたでしょうか?』
 そんなことはないはず。気が狂うほど寝る間も惜しんで絵を描いたとおもう。

休日が必要だとか、一日の労働時間という概念を持ち込むようになったのは、たぶん大多数の人が企業と労働契約を結ぶようになってからだろうと思う。農業をしていても、自営業をしていても必要ならば休日も関係なく働くのであって、ルールがあるからとか管理者がいるから働くわけではなかった。


2012年2月4日土曜日

今日は、仕事をしましたか?

海老原嗣生著『仕事をしたつもり』を読む。

仕事をしたつもりとは、
・けっこう一所懸命仕事をしている
・まわりもそれを認めていて、非難する人はいない
・本人はその行為にまったく疑問を持っていない
・しかし、成果はほとんど出ていない
という状態のことを指す。

残業までしてクタクタになっているのに、
仕事ははかどらない。成果が出ない。
こういうのを「仕事をしたつもりーマン」というのだそうだ。
縮めて、「ツモリーマン」。

会社員時代にこういう事例は、いやというほど見聞きした。
(以下自分の体験談)

残業してふうふう仕事している人間より、
効率よくさっと仕事を仕上げて早く帰る人間の方が、
職場ではなんとなく浮いてしまい、けっきょく嫌われる。

いつしか定時後にお菓子でも買って、
みんなと群れあって、雑談でもしながら、
そうそう仕事の成果って上がんないんだよね~
と愚痴っているのが習慣になる。
(ただ、残業代や手当はしっかりもらえる)

いつも帰りが遅いことを聞かれると、
「いや~このごろ忙しくってねぇ・・・」

日本人は長時間労働と言われているけれど、効率はすごく悪いと思う。
多分、仕事の時間の半分は無駄。
いやもっとかもしれない。

OA機器の浸透で、社内でもプレゼンするには、パワーポイントを使って、
プロジェクターでやることが当たり前になった。
するとそのための資料作りけっこうな日数を費やしてしまう。アニメなどを入れたりしてね。

配布資料も配らなければならない空気があって、けっきょく総カラー版になる。でも一字の間違いを見つけると、全部刷り直して綴じなおす。

で、重要と言われる会議では、自分で単独発表するわけにはいかない。
上の人間にチェックという関門があって、あれこれと修正が入る。
直属の上の人間と、さらにその上の人間というふうに関門が2つあったりする。
各関門で正反対のことを言われれば、関門通過のたびに、こっちに転び、また元に戻って転び、そんなバカバカしいことを何度も繰り返す。
その都度、パワーポイント資料が変わり、配布資料も変わり・・・大量の廃棄資料が生まれる。

いつしか発表内容は、当たり障りのない無難なものに落ち着き、
プレゼンもインパクトのないものになり、却下されたりする。
(こんなことを続けて、尖ったところをすり減らしたら、
特徴もなく、毒にも薬にもならないものが出来上がる)
こんな集合知はいつも愚かでしかない。

多大な時間と労力と資源を費やした資料が、会議でまともに読まれないことすらある。
どれだけ森林資源に対して罪なことをしているのだと問いたい。
それじゃ最初からやらなければよかったとなりねない。
忙しい思いをして、成果はほとんどないわけだ。

たぶん平凡な会社ではこんな同様な事柄が繰り返されている。こんな雰囲気に上から下まで染まっているから、本当の危機感を持っている人間は弾かれたりする。ますます会社は健康体から病理体質になっていく。
日本全体で見たら、どれだけ未来への活力を奪い若い人達を疲弊させているのか。

仕事の本質を考えない、あるいは目的を問うことを禁じられている風土。考える習慣を教えこまれない教育システムからは、さまざまな疑問を持ち、自分で調べ上げるような人間は出てこない。
こんなことでは、欧米だけでなく、新興国にも、いともたやすく追い越されてしまだろうなぁ・・・
(すでに追い越されているよ、と陰の声も聞こえる)

仕事したつもりになって、体と精神をすり減らして、
成果はほとんどないのでは、日本は衰退国家になるしかない。
私見だが、日本の未来の道は、科学技術立国しかないのではないのかな?


2012年2月3日金曜日

全電源喪失のなぞ

昨年3月11日の巨大地震により、福島第一原発が深刻な事故に展開するに至ったのは、通常の電源が供給不能になったこと、さらに非常用電源もダメになったという事態だ。いわゆる「全電源喪失」といわれているこの状態、もとエンジニアの自分には、なぜそんなことになってしまったのか不思議でならなかった。

まず正常な電源が使えなくなったのはなぜなのか、そして非常用電源が使用不能になったのはなぜなのか。その疑問をはっきりさせるために、いろいろな情報や書籍などを調べてはみるものの、事態の推移を客観的に述べたものが見当たらない。

ネットの情報で、明らかになったのは、正常な電源が供給されなくなったのは、津波が襲った地域とは関係のない山の中に建設されていた送電線の倒壊と、電線ショートなどの事故によるものだという事実。
NHKネットニュース (2011年5月24日)

そして非常電源が作動し、原子炉の緊急冷却動作などの処置をしている最中に、津波が非常電源系統を襲い(浸水してしまい)、全ての電源が使えない状態となったということらしい。

結果だけを見て、あれこれと批判するのは容易だが、疑問がいくつか浮かぶ。 送電線鉄塔が倒壊したのは、設計強度を越える揺れが襲ったためなのか。電線のショート事故が発生したのも、設計許容値外の話なのか。 非常電源は、なぜ津波の浸水で使用不能になってしまう設計なのか。津波の大きさが大きすぎたために「想定外」の事態に見舞われたのか。

自分には(部外者には)詳細な技術情報は得られない。しかしこれら疑問に対する答えがないまま、なし崩しみたいな安全宣言がなされて、全ては対策が終わったとされるのは困る。東電という一企業内部に収まるような事故ではないのだ。

他の原発では安全なのかどうなのか、それを判断するためには、福島第一原発で起きた全電源喪失の経緯や、欠けていた対策などが明らかになること、他の施設に対してもどうなのかを検証しなければならない。

再発防止にとても重要なそのような内容の報告が、聞こえてきているとは思われないのだが。
またその情報が、「国民が自ら努力して調べないと」得られない状態がいいとは思われない。
国や東電の公式見解を示すものは、どうなっているのだろう。


2012年2月1日水曜日

福島第一原発2号炉の内部調査に思うのだが・・・

もう2週間ほど経過するが、先月の19日に、2号炉の格納容器に穴を開け、内視鏡で内部を観察するという作業が行われた。

内部は蒸気だらけでまるで風呂場の中みたいな状況だし、高い放射線量のために、おそらく画像素子(CCD)にノイズがいっぱい入って、満足な画像を得ることはできなかった。とても不鮮明な画像が数枚公表された。

報道機関に予告までして、内視鏡観察をおこなった今回の作業。情けない結果である。誠に情けないと感じた。何をやっているのだろう?一歩踏み込んで考えていないということが、よくわかった。

たえず水を注入しているし内部が高温なのは分かっているので、蒸気が充満しているのは当然。そんなのは内視鏡の先にパージする機構をつけるか、格納容器内を乾燥空気で置換しなければ意味がない。そんなことを検討した形跡がない。

放射線だってたくさんあるのは分かりきっている。なぜ長いファイバを使って、画像素子を放射線の少ないところに設置しないのか、不思議でならなかった。画像素子は光励起によるキャリア発生で電流を生成するが、とうぜん放射線によってもキャリアが発生する。

内部を見ることで、容器内の状況を確認するという今回の作業目的がよくわからない。まず覗かなければダメだという頑迷な頭で臨んだのだろうか。 内部の状態を知るには、放射線量や湿度、温度、下部の水位などが、重要な技術情報だ。とくに水位はメルトダウンの状況を知る上で、重要な数値である。

水位センサを持ち込んだとは報道されていない。しかし単純な水位計を挿入すべきだと思った。穴から内部に垂らせばいいだけで、正確な水位がわかる。

今回の作業は、温度計測以外はほとんど何も成果がなかった。まあ失敗といっていいと思う。企業の研究所で、こんな実験報告をしたら頭からどやされるだけだ。

東電のスポークスマンの松本部長代理。このような作業を積み重ねて、前進していくことが重要だと考えております、というような趣旨の見解を述べていたが、今回も人ごとのように話していた。
こんなザルな作業をいくら積み重ねたって進展するとはとうてい考えられない。


2012年1月30日月曜日

思い上がるのもほどほどに

日頃、気になる言い方について。

TVのCMなどで、商品をアピールしようとしてよく出てくる言葉。
「地球にやさしい」何たらかんたら・・・車とかに多い。

こんな思い上がった言葉はないのに、感覚的にはなんとなく善の香りがして心地よく受け止めてしまう。恐ろしいね。

親や大人が、子供や初心者にやさしい態度で接するという言い方は正しい。しかし、地球にやさしいという時、地球のことをまるで人間が好き勝手にできる所有物であるかのように言う。この胡散臭さはたまらない。

そのくらい人類は自然とか、地球に対して、ゆがんだ感覚を持って接している。やさしくしないと地球はガラスのように壊れてしまうかのようだ。しかし壊れてしまうのは、やりたい放題やってきたそのつけを払うことになる人類の方である。

地球はどんな天変地異が起きようが、相変わらず地球で、そのことは変わらない。巨大隕石がぶつかろうが、放射能に汚染されようが、地球が破壊されてしまうことはない。そういう46億年の長い歴史を経ている。ただ人間が住める環境であるかどうかは保証しない。

M9の地震が起きて大津波で壊滅的な被害を被ったばかりの日本。自然の力の巨大さ、人間の(文明の)無力さを、報道映像で思い知ったはずである。この地震、地球にとってはクシャミほどのことである。地球にやさしくと言っている人間の思惑に関わりなく、地球は地球の物理で動いているだけだ。
ほんとうは、荒れ狂う自然の脅威の前で、幸運にも生きながらえているのが人類ではないだろうか。

人間のちっぽけな知力で、自然界を全部わかってしまったかのように思い、地球を守れると思うのは、救いがたい妄想と思う。こういう思い上がりの気持ちは、結局、自然を甘く見て、災害対策の甘さにつながる。

われら人間にやさしい車、われら人間にやさしい洗剤といってもらいたいものだ。


2012年1月28日土曜日

いちばんを狙うのです!

かつての民主党の看板施策の感すらあった事業仕分けで、レンホーさんの「1番でなければいけないんですか?」との発言は、流行語になりそうなくらい印象的だった。

しかし密かに思ったのは、ここは1番でなければいけないのです!とあの場で科学に携わる人間に叫んで欲しかったと思う。

2番で良いやと思うことは、10番でも20番でもいい。開発競争にやる気がないことを意味する。ま、形だけ研究を続けて少ないけどそれでも研究費がもらえればいいや・・・そんな感じになってしまう。(じっさいそういう研究者はごまんといる)

そんな研究に金を掛けをかけるのですか?
掛けるのです!
と答えてほしかったなぁ・・・

世界で一番になる情熱がなかったら、研究室の片隅で、長い実験を繰り返して、苦しい討論を経て成果を得るなんてことはない。

世 の中に便利なものが生まれたり、新しい医療が開発されたりするのは、こういう地味な研究者のおかげだ。情熱や夢がなかったら、苦しい作業を何年も何十年 も続けるはずがない。(もちろん成果を挙げることを目指さず、ただ生活の資として研究を続ける人はたくさんいる)

最近の例では、白色LEDの商品化がずいぶん照明の世界を変えつつあるし、iPS細胞の研究が再生医療などに応用展開されることを期待している。はじめは本当に地味な場所から情熱を持った人がスタートさせているはず。

少しでも進歩したい気持ちを持つ人、それを商品化したいと奔走する人、宣伝する人、そういう人がいなければ新しいことは世の中に生まれてこないし、新規事業など生まれるはずもなく、長期にわたって企業が存続することは出来ない。

技術開発に携わった頃、よく言った。
塩や砂糖を作る仕事をいまさら始めても仕方ないんだ。
便利なもの付加価値のあるものをやらなきゃしょうがない。
そこにはかならず競争相手がいる。
最初に特許をとらなければダメだ。
つまり1番になるということだ。

パフォーマンスの匂いのする事業仕分けの短い時間で、技術開発において1番になるチャンスの芽が摘まれることを危惧するのだ。また、役たたずの研究を続けて、無駄使いばかりしている研究者たちを格好よくやっつける勧善懲悪の図が、世間に受け入れられてしまうこともかなりヤバイ。マスコミが仕掛ける世間受けしやすい図に乗ってはいけない。もっと国民は賢明になるべきだ。

こういう思いは、けっきょく日本は、科学技術立国(知的財産権立国)しか道はないはずだという根底の考えがある。



2012年1月27日金曜日

微少量が全体を支配する?

前記事の地球温暖化の話で、二酸化炭素のように大気中の微量成分(360ppm程度)が、大気の気温を支配するとは考えられないと書いた。360ppmとは、100万個の大気中の分子あたり、360個ほどということだ。大雑把な言い方をすれば、1万粒の大気分子の中の3~4個という割合である。

測定された大気中の二酸化炭素濃度の増大は、NOAA マウナロア観測所のデータによれば、1960年に約320ppmで、2000年で360ppmを少し越えている。ざっと言ってしまえば、40年間で約40ppm直線的に増大している傾向を示している。1年あたり1ppmの増大ということだ。
出典:http://www.nies.go.jp/kanko/news/28/28-5/28-5-04.html

したがって、大気中の二酸化炭素の増える割合は、40年間で1万粒あたりの大気分子中で、0.4個増えたということである。 3.2個だったものが3.6個になった。

こうして噛み砕いて書いてみると、二酸化炭素の濃度の増大で(40年で1万粒あたり0.4個増える)、地球温暖化が進んで世界は破局に向かうという説が、なんだか馬鹿げて聞こえる。 あくまで感覚的なものだが、多分間違っていない。

こういう極微量成分が、全体の温度というものを支配するためには、なにか特別なクリティカルな仕組みを想定しなければ説明がつかない。化学反応の触媒のような、微量存在するだけで特異的に化学反応が速く進むようなメカニズムだ。それはなんなのだろう?そのようなものがはたして存在しているのだろうか?



2012年1月26日木曜日

じつは寒冷化が恐ろしい

この一週間ほど、こちら信州はとても冷えている。天気予報によれば全国的に厳しい寒さが襲っているとのことで、信州だけではないのだろう。

ふと地球の寒冷化が始まったら大変だろうなと想像する。
(ちなみに温暖化ではない。こちらは大変な問題ではないと思う)
作物が育たなくなる。コメ作の北限が、どんどん南下してしまう。他の穀物も同様で、これは地球規模だ。

各国は、食料の自国囲い込みをはじめるので、貧しい国は飢餓で衰退するだろうし、暖かな場所への大移動で国が崩壊してしまう可能性もある。先進国といえども、食料それにエネルギーに関してかなり困窮するはずだ。

地 球の歴史では、氷期という本当に寒い時期が10万年単位で襲ってくる。そして氷期と次の氷期の間に、間氷期という比較的暖かい時期が約1万年ある。現在は 1万年続いた間氷期の最後の際にいると言われている。氷期のはじまりは、100年後かもしれないし、10年後かもしれない。

人類の文明が築かれたのは、たかだか5000年ほどだから、文明が氷期を経験したことはない。食料の維持ができないので、結果的に人類は激減してしまう。赤道に近い比較的暖かな地方で、ほそぼそと原始的な生活を送る人類がいるような図だろうと思う。現在の文明の形態はないだろうと想像する。

グリーンランドという氷の島がある。昔は緑が生い茂る生物の住んでいる島だった。地層からその証拠が出てくる。それが現在のような寒冷化に襲われている。

自分が学生時代は、将来、地球寒冷化が問題だと騒がれていた。根本順吉氏の本などをよく読んだ。それが欧米を中心とした先進国の政治的、経済的意図から、地球の温暖化が大問題であることになってしまった。もちろんCO2排出にまつわる駆け引きがその裏にある。

正直なところ、ボクは温暖化が問題であるとは一度も思わなかった。340ppm(=0.034%)ほどのCO2の濃度が、40年間に40ppm(年に約1ppm)ほど増えようが、地球の平均気温にカタストロフィックな激変が起きるはずがない。増えれば海水に吸収されて炭酸になるだけだ。

植 物が地球上に現れる前は、酸素はなかったし、大気はCO2だらけだったのだ。海洋が出来るとともにCO2は炭酸として吸収された。また植物が吸収して、酸素を放出した。そしてCO2は激減して今の濃度でバ ランスしている。昔の地球は、CO2の温室効果ガスだらけだったので、温暖化を主張する人の言い分に従えば、むかし地球は煮えたぎっていたはずだ。むろん 植物は発生できなかったはずだ。

温度が上昇するからCO2が増えるのであって(海水からの溶存CO2の放出)、CO2が 増えたから温室効果ガスで気温が上がるわけではない。温室効果による気温の上昇を主張するのなら、水蒸気の問題を考慮しなければおかしい。CO2悪玉説では、なぜか水蒸気がないかのような議論がなされる。水蒸気こそいりばん大量に大気中に存在しており、熱の閉じ込め効果も大きい。雲がたくさんで きるか、晴天が多いかにより気温はかなり変化する。

たぶん気温の上昇は、太陽活動の変動による放射線の増減で、雲量の変化が引き起こしていると言われている。太陽活動は、黒点の数に現れるので、地球の気温は黒点の数と、強い相関がある。

昨年、温暖化危機説を唱えていた気候変動に関する政府間パネル(IPCC、学者のあつまり)が、温暖化データ捏造をしたことが発覚し、報道された。誠意ある 学者はもともとこの狂騒曲で踊らなかったが、インチキさが暴露されてしまったいま、温暖化説の説得力は失われた。(でもなぜか日本の報道はそれを事実として報道したがらない)

ほんとうは寒冷化が恐ろしい。